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コンスタンティヌス朝 年表
3世紀後半から4世紀にかけて繁栄したコンスタンティヌス朝の歴史を コンスタンティヌス大帝を中心に父コンスタンティウスからユリアヌスII世までを年代順に追ってみました。ディオクレティアヌス帝及びガレリウス帝の統治した東方のローマ帝国の史実は基本的に省力、西方のローマ帝国を統治したマクシミアヌス帝及びコンスタンティウス帝の史実に重点を置いて作成しております。
250年頃3/31 | コンスタンティウスの生立ち | イリリュクで生を受け父方は属州モエシアの名門貴族、母方が高貴な出で皇帝クラウディウス・ゴティクスの姪にあたるとされています。 ※この件はコンスタンティヌス帝が捏造させたという説も存在します。 |
〜274年頃 | ヘレナと最初の結婚 | ギボンは合法的な結婚と紹介していますがヘレナは一般的には宿屋の娘として生まれたとされコンスタンティウスとの関係は妾の扱いであったとスイスの歴史学者ヤーコプは論じています。 |
274/2/27 | コンスタンティヌスの生立ち | コンスタンティヌスの誕生日はギボンによれば274/2/27となります。出生地はダキアのナイッスス(現在のセルビア・モンテネグロのニシュ)。 ※ヤーコプ・ブルクハルトも274年生まれとしています。 |
274/2/27 | コンスタンティウス軍司令官時代 | アウレニアヌス帝の治世においてコンスタンティウスはウィンドニッサ(現在スイスのヴィンディッシュ)の闘いでフランク族とアラマン族を破る。 |
286 | カラウシウス皇帝僭称 | 帝位簒奪者カラウシスはガリアの一部とブリタニアを支配下に置くことに成功。 |
286 | アキレウス皇帝僭称 | 帝位簒奪者アキレウスはアレクサンドリアを支配下に置くことに成功。 |
287-288 | マクシミアヌス帝の遠征 | マクシミアヌス帝はブルグンド族、アラマン族、ヘルリ族、フランク族の鎮圧に成功する。 |
〜293年頃 | コンスタンティウス帝テオドラと再婚 | コンスタンティウスはテトラルキアの儀式に従いローマ帝国の西方皇帝マクシミアヌスの継娘であるフラウィア・マクシミアーナ・テオドラと結婚します。 ※この時代のローマ帝国では離婚し再婚することは儀式上日常的なことです。宗教的なことが原因と考えられますが作者によって離婚に関する記述を削除している場合があります。 |
292-293年頃 | コンスタンティヌス18歳の頃 | コンスタンティヌスはディオクレティアヌス帝の部下としてエジプト、ペルシアにおける闘いで頭角を現し近衛軍将校の地位を得、その後モエシア州の軍司令官に任じられたされています。 |
293/3/1 | テトラルキア開始 副帝の任命 | コンスタンティウス(マクシミアヌスの親衛隊長)はカエサル(副帝)の任命を受けます。 |
293 | カラウシウス帝の死 | コンスタンティウス帝はゲソリアクム(ブローニュ)港を包囲。カラウシウスは腹心アレクトゥスによって殺害されます。 |
293 | 首都トリーア | コンスタンティウスは副帝に就任後12年間、首都トリーアを中心に担当エリアであるガリア、ブリタニア、イスパニアへローマ帝国の道路網を駆使し頻繁に移動しています。 |
293-294 | 貨幣発行地 トリーア | 293年まで貨幣発行は少量に留まっていましたが294年以降フォリスを中心に大量に発行されることになります。リヨンは軍人皇帝時代から貨幣発行の中心で294年以降も変わることなく大量に発行されています。 |
294 | コンスタンティウス帝 遠征 | コンスタンティウス帝はバダヴィア人の居住地をフランク族から奪還します。 |
296 | アレクトゥス帝の死 | コンスタンティウス帝は全軍を率いブリタニアに進軍。アスクレピオドトゥスの働きにより快勝、アレクトゥスは大きな闘いをするこなく戦死しています。 |
296 | 宗教弾圧 | ディオクレティアヌス帝はマニ教徒を火あぶりの刑にしています。 |
296-297 | 貨幣発行地 ロンドン | ローマ帝国のロンドンにおける貨幣発行の起源は帝位簒奪者カラウシウスよって始まりますが帝国の公式貨幣は296年のFollis発行が最初となります。 ※SPINK社発行のRIC VIカタログでは297年からの開始となっていますが現在では296年開始とする見方が一般的常識とされているようです。 当時のロンドンの造幣環境が悪かったのでしょう。金貨、銀貨は当初発行されておりません。 大英博物館がロンドンに存在するからなのか初期シリーズコインへの英国コレクターの熱意は異常です。 |
296 | アレクサンドリアの奪還 | ディオクレティアヌス帝はエジプトの奪還に成功。この時22歳のコンスタンティヌスを従えていたとされています。 |
298 or 300 | コンスタンティウス帝 ラングルの闘い | コンスタンティウス帝はラングル(現在のフランスのオート・マルヌ)においてアラマン族を破ります。 |
299-305年頃 | コンスタンティヌス 第一子誕生 | 最初の妻ミネルウィナとの間にクリスプスをもうけていますが出生地は不明です。 |
302 | 宗教弾圧 | ディオクレティアヌス帝はマニ教禁止令を発布します。 |
303/2/24 | キリスト教の禁止令(第一次) | キリスト教徒の礼拝の会合を禁止する。教会の取り壊し、教会関係の著作物の焼却等も含まれています。 |
303-304 | キリスト教の禁止令(第二〜四次) | キリスト教禁止令を第二次〜第四次まで発布する。 |
305/5/1 | 退位 | ディオクレテイアヌス帝とマクシミアヌス帝が揃って退位します。 |
305/5/1 | 正帝昇格 | コンスタンティウスとガレリウスが正帝に昇格します。 |
305/5/1 | 新副帝の任命 | ガレリウス帝は忠実なセウェルスII世と甥のマクシミヌス・ダイアをそれぞれ西方、東方の副帝に任命します。前者はイタリアとアフリカの支配権を後者はエジプトとシリアの支配権を与えられます。 |
305 | コンスタンティヌス 父と合流 | コンスタンティウス帝は息子コンスタンティヌスを自分の下に置けるようガレリウス帝に度々書簡を送っていましたが何かと理由をつけ断わられていました。迫り来る危機を察知したコンスタンティヌスはニコメディアを脱出しブリタニア遠征の準備を行っていた父とブローニュで合流することに成功しています。 |
305-306 | ブリタニア遠征 | コンスタンティヌスはスコットランドのピクト人鎮圧の軍事行動に参加します。 |
306/7/25 | コンスタンティウス帝の死 | コンスタンティウス帝はヨークの宮殿内で息を引き取ります。 |
306年夏 | 正帝を宣言 | コンスタンティヌスは、コンスタンティウス帝が雇っていた軍隊によって西方の正帝に擁立されます。 |
306年夏 | 副帝を承認 | ガレリウス帝は正帝ではなくコンスタンティヌスの副帝を承認します。 |
307 | マクセンティウス 皇帝宣言 | マクセンティウスは親衛隊による皇帝宣言を受けイタリア全土を掌握します。 |
307 | フランク族と戦闘 | コンスタンティヌス帝はフランク族の一派とされるカッティ族、アンプスヴァリ族等との戦闘に出撃しています。 |
307/9/16 | セウェルスII世の死 | マクセンティウスの皇帝宣言を受け西方の共治帝セウェルスII世は東方のガレリウス帝から鎮圧の命を受け出撃します。セウェルスII世はラヴェンナにおいてマクシミアヌスの軍隊に包囲されると投降し死刑の宣告を受けます。 |
307 | ファウスタとの結婚 | マクシミアヌス帝は政略目的で娘ファウスタをコンスタンティヌスに嫁がせます。ミネルウィナと正式に離婚した形跡を残す記述がないことから307年の結婚前までに彼女が死んでしまっていた。もしくは正式に結婚していなかったという説に落ち着いているようですがどうだったのでしょうか。コンスタンティウス帝とヘレナの別れと同じようにその息子コンスタンティヌスとミルウィナが同じような運命を辿っていくことになります。 ※この時代のローマ帝国では離婚し再婚することは儀式上日常的なことです。宗教的なことが原因と考えられますが作者によって離婚に関する記述を削除している場合があります。父コンスタンティウスの記述が残されていないのは理解できなくもないのですがキリスト教文人作家達に囲まれたコンスタンティヌス大帝に関して記述がないのは意図的なものを感じざるを得ません。 |
308/11/11 | カルヌントゥム会議 リキニウス正帝に即位 |
リキニウスはセウェルスII世の後任としてカルヌントゥム会議(Carnuntum)により西方の正帝に任命され、コンスタンティヌスは副帝に同意させられることになります。東方は正帝にガレリウス副帝にマクシミヌス・ダイアと以前と変わらないことを確認します。この会議はガレリウス帝が野望追求の四分割統治に失敗したことにより先帝のディオクレティアヌス、マクシミアヌスに登場してもらい仕切りなおしを謀る目的で開催したものです。 |
310/07 | マクシミアヌス帝の死 | マクシミアヌス帝の最後は自殺か他殺か不明です。コンスタンティヌス帝の死亡説を流布し再登位をねらいましたが追い詰められマルセイユにて没したとされています。 |
311 | リキニウス帝とマクシミヌス帝の衝突 | リキニウス帝とマクシミヌス帝との衝突が発生しましたがヘレスポントスの会談で和解しました。 |
311/05 | ガレリウス帝の死 | ガレリウス帝はニコメディアの宮殿ではなくセルディツァ(現在のブルガリアのソフィア)で没したとされています。 |
311/12/3 | ディオクレテアヌス帝の死 | ディオクレティアヌスは、属州ダルマティアのサロナ(現在のスプリト)において没したとされ帝国の必要な追っ手にかかる前に自殺したとも言われています。 |
312 | 寛容令 | ミラノにおいてキリスト教寛容令が発令されます。 |
312/10/28 | マクセンティウス帝の死 | マクセンティウスはミルヴィオの戦いで敗北を喫し敗走の最中に橋から落ち溺死したとされています。
※エウセビオスが後世に伝える有名な伝説のシーンはこの闘いで発生したこととして書き残しています。 |
313 | 寛容令 | ミラノにおいてキリスト教寛容令を再び出しリキニウス帝が連署した勅令を発布しました。 |
313 | フランク族と戦闘 | コンスタンティヌス帝はフランク族との戦闘に出撃します。 |
313/07or 08 | マクシミヌス・ダイア帝の死 | マクシミヌス・ダイア帝はキリキアのタルソスで自然死をとげたとされています。 |
314 | ディオクレテアヌス帝の死 | ディオクレティアヌスは、属州ダルマティアのサロナ(現在のスプリト)において没したとされていますが帝国の必要な追っ手にかかる前に自殺したとも言われています。 ※ディオクレティアヌス帝の最後にはいろいろの説あり。ギボン説は314年。ローマ皇帝歴代誌のクリス・スカー著によると311/12/3。 ヤーコプはディオクレティアヌスの最後を313年頃と考察しています。食を断ったか服毒自殺ではなかったかとしています。 |
314/10/8 | キバリスの戦い | 314年10月8日(近年の研究では316年と解釈されている)コンスタンティヌス帝とリキニウス帝はパンノニアの都市キバリスで最初の闘いコンスタンティヌス軍の勝利と終わります。 |
315/12 | 講和会議 | 講和会議が開催されリキニウス帝が任命した副帝ウァレンスの解任。ヨーロッパ全土の譲渡。(ギリシア全土とトラキア、黒海沿岸、ドナウ河の南側を除く)等が決議されました。 |
316 | コンスタンティヌス帝 第ニ子誕生 | コンスタンティヌス帝はファウスタとの間にコンスタンティヌスII世をもうけます。 |
317 | マルディアの闘い | コンスタンティヌス帝とリキニウス帝はマルディアの地で再び闘いリキニウス帝は破れ和解を申し入れます。 |
317 | 新副帝の任命 | コンスタンティヌス帝は第一子クリスプス第二子コンスタンティヌスII世を リキニウス帝はコンスタンティアとの第一子リキニアヌスを副帝に任命します。 |
317 | コンスタンティヌス帝 第三子誕生 | コンスタンティヌス帝はファウスタとの間にコンスタンティスII世をもうけます。 |
319 | フランク族と戦闘 | コンスタンティヌス帝はフランク族との戦闘に出撃します。 |
319 | キリスト教徒迫害 | リキニウス帝はキリスト教徒がコンスタンティヌス帝の権勢欲を動かしているものとし319年以降キリスト教徒への迫害を始めます。 |
323 | コンスタンティヌス帝 第四子誕生 | コンスタンティヌス帝はファウスタとの間にコンスタンスをもうけます。 |
322/01 | クリスプスの結婚 | 322年1月にクリスプスはヘレナと呼ばれる女性と結婚しています。このことは歴史の表舞台に登場することはほとんどありません。 |
324/7/3 | リキニウス軍と再度開戦 | コンスタンティヌス帝はアドリアノープルの闘いで勝利します。 |
324 | クリスプスの勝利 | クリスプスはリキニウス帝の艦隊をヘレポントス海峡にて撃破します。 |
324/12/19 | リキニウス帝の退位 | 妻コンスタンティアの交渉により生命の保証を得てリキニウス帝は降伏に応じています。 |
325 初頭 | リキニウス帝の死 | リキニウス帝はテッサロニカの地で不可解な理由により処刑されます。 |
325 | ニカイア公会議 | コンスタンティヌス帝の庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開催されています。 |
326 | クリスプスの死 | イストリアのポーラで処刑されています。 |
326 | リキニアヌスの死 | クリスプスの処刑と同時期に殺害されたと言われています。 |
326 | ファウスタの死 | コンスタンティヌス帝の妻ファウスタは浴室内で窒息死させられます。 |
326-330年頃 | ヘレナの死 | コンスタンティヌス帝の母ヘレナは326-330年頃没したとされています。 |
330 | 遷都 | コンスタンティヌス帝はローマ帝国の首都をローマからコンスタンティノポリスへ移します。 |
333 | ゴート族との戦い | コンスタンティヌス帝とコンスタンティヌスII世はモルダウ、バラキアへサルマタイ人の要請により遠征を行います。 |
333 | 異母兄弟への優遇策 | コンスタンティウス帝とテオドラの子ダルマティウスを執政官、監察官の要職に就けています。 |
335 | 新副帝の任命 | ダルマテイウスの子、小ダルマティウスを副帝に任命します。 |
335 | 帝国の分割 | コンスタンティヌス帝は実子の3人以外の異母兄弟等にも領土を分け与える遺言を残しています。 |
337 | コンスタンティヌス帝の死 | コンスタンティヌス帝はペルシアのシャープルII世との闘いの準備地であるヘレノポリスで病に倒れニコメディア近郊にあるアキュロナ宮殿で息を引き取ります。 |
338 | コンスタンティヌス朝の相続争い | コンスタンティウスII世が首謀者とされるコンスタンティヌス朝一族の大粛清が遂行されます。生存者は対象外であったコンスタンスII世、コンスタンスと対象であったが生き延びたコンスタンティウス・ガルスとユリアヌスII世のみでした。 |
340 | コンスタンティヌスII世帝の死 | 小ダルマティウスの残した領土をめぐりコンスタンスとコンスタンティヌスII世が争いコンスタンティヌスが敗北を喫し殺害されます。 |
350 | コンスタンス帝の死 | コンスタンス帝は帝位簒奪者マグネティウスよってピレネーの山中で殺害されます。 |
351/03 | 新副帝の任命 | コンスタンティウスII世帝はコンスタンティウス・ガルスを副帝に任命します。 |
351/09 | ムルサの闘い | マグネンティウスはパンノニアのムルサの闘いでコンスタンティウスII世に敗北します。 |
353 | マグネンティウスの死 | マグネンティウスはガリアの地で追い詰められ自殺します。 |
354 | コンスタンティウス・ガルス帝の死 | コンスタンティウス・ガルス帝はコンスタンティウスII世によって処刑されます。 |
355/11 | 新副帝の任命 | コンスタンティウスII世帝はユリアヌスII世を副帝に任命します。 ユリアヌスII世はこの時期にヘレナと結婚しています。 |
360 | ペルシア遠征 | コンスタンティウスII世帝はペルシア遠征を開始します。 |
360/2 | 正帝宣言 | ユリアヌスII世はガリアの軍隊によって正帝に擁立されます。 |
361/11 | コンスタンティウス帝の死 | コンスタンティウス帝はユリアヌスII世の正帝宣言に対抗すべく帰還の途につきますがキリキアで病に倒れます。 |
363/3 | ペルシア遠征 | ユリアヌスII世帝はペルシア遠征を開始します。 |
363/6/26 | ユリアヌスII世の死 = コンスタンティヌス朝の終焉 | ユリアヌスII世帝はペルシア戦線で戦死を遂げます。 |